2023.05.06

第1章 はじめに(1)

執筆:関口莉奈穂 (編集・文責:井門隆夫研究室)

1.1 日本の観光政策

今日、世界ではあらゆる経済活動において持続可能性が重要視されています。日本でも、2015年に国際連合(以下、国連という)が発表した持続可能な開発目標「SDGs」をはじめ、気候変動や脱炭素といったキーワードが話題に出る機会は多くなりました。こうした環境意識の高まりや人口減少、感染症など様々なリスクを背景に、より一層持続可能性への関心が高まっているといえるでしょう。

観光業においても、持続可能な観光(サステナブルツーリズム)は世界各国の観光政策で重要な観点となってきています。国際観光機関(以下、UNWTOという)による定義では、サステナブルツーリズムは「訪問客、業界、環境及び訪問客を受け入れるコミュニティのニーズに対応しつつ、現在および将来の経済、社会、環境への影響を十分に考慮する観光」とされています。日本では、外国人を含む旅行者数の急激な増加に伴い、地域住民や訪問する旅行者の間で混雑やマナー違反などの問題が発生し、こうしたオーバーツーリズムによる環境や地域へのネガティブな影響が一因となって、持続可能な観光への取り組みが進み始めました。観光庁は2018年に「持続可能な観光推進本部」を設置し、観光客の需要と観光地の地域住民の生活環境の調和を図り、両者の共存・共生に関する対応策のあり方を検討・推進してきました。また、2020年には観光客と地域住民の双方が満足できる持続可能な観光を実現するための観光指標として、「日本版持続可能な観光ガイドライン(Japan Sustainable Tourism Standard for Destinations)」(以下、JSTS-Dという)を開発しました。JSTS-D は,グローバル・サステナブル・ツーリズム協議会(Global Sustainable Tourism Council)(以下、GSTCという)が作成した国際基準である観光地向けの指標、Global Sustainable Tourism Criteria for Destinations(以下、GSTC-Dという)に準拠しています。GSTCは、持続可能な観光の推進と持続可能な観光の国際基準を作ることを目的に、2007年に発足した国際非営利団体であり、2008年には宿泊施設やツアーオペレーター等観光産業向けの指標であるGlobal Sustainable Tourism Criteria for Industry(以下、GSTC-Iという)を開発、2013年に観光地向けの指標であるGSTC-Dの開発を行い、これらの管理・普及活動を行っています。観光庁はJSTS-Dの策定目的について、同ガイドラインを各地方自治体や観光地域づくり法人(DMO)等が活用することにより、地域での多面的な現状を把握し、継続的なモニタリングと証拠資料に基づいた観光政策や計画の策定、それらに基づく持続可能な観光地マネジメントを促すこととしています。




1.2 宿泊業における持続可能性の追求

このように、日本ではサステナブルツーリズムの実現に向け、観光業全体として様々な政策を実施しており、これは宿泊業に焦点を絞った場合でも同様のことがいえます。その一つが富裕層市場の地方への誘致拡大に向けた取り組みです。2019年、当時官房長官であった菅元首相は、訪日外国人客の受け入れ態勢を強化するため、「日本各地に世界レベルのホテルを50カ所程度、新設することをめざす」と発言しました。これは、消費額の高い富裕層市場に向けたホテルが国内には少ないという課題に対処することを目的とした発言であると同時に、京都などの有名観光地で発生するオーバーツーリズムの問題に対して、国内のホテルを地方に分散させることで、観光公害の解決につなげようという考えもあったと推察されます。この菅元首相の発言の後、政府は「上質なインバウンド観光サービス創出に向けた観光戦略検討委員会」を設置しました。

委員会の趣旨については「訪日旅行者の長期滞在と消費拡大に向け、これまでわが国が誘致しきれていない富裕層など上質な観光サービスを求め、これに相応の対価を支払う旅行者の訪日、滞在の促進を図るための環境整備が急務である。」とし、「世界中の旅行者を惹きつける上質な観光体験を実現するための一体的な取り組みを官民挙げて迅速かつ強力に推進することが必要」としています。委員会での検討内容としては、地域への誘客力を備えた上質な宿泊施設の整備をはじめ、上質な観光コンテンツの造成、上質な旅行環境を一貫して提供するための施策(人材確保・育成、快適な移動環境等)などがあります。

こうした富裕層誘致強化の方針は、ポストコロナを見据えたインバウンド政策として、客数を抑える一方で観光収入を上げるためには単価を上げる必要があり、日本市場における富裕層観光のポテンシャルが高いことや富裕層は国際観光の戻りが早いという予測[1]から、打ち出されたものです。前述した委員会の委員でもあるデービッド・アトキンソン(2015)は、どれほど観光客が訪れても、観光収入をあげなくては日本経済への効果は限定的であり、特に昨今問題となっているオーバーツーリズムを考えるにあたってこの点が重要であることを指摘しています。このように、旅行者数を目標にするのではなく、消費額を指標として観光効果を検討すること、ひいては消費額の高い富裕層市場の誘致に向けた整備を進めることは持続可能性という視点において重要です。また、委員会では、上質な宿泊施設を地方に誘致することを検討していますが、これは現状として富裕層のニーズに応える上質な宿泊施設が一部の都市に集中していること、また地方には富裕層の旅行ニーズがあることなどから設定されています。

こうした上質な宿泊施設の整備による地方誘客への効果として「地域での消費や雇用の創出に貢献するとともに、 観光資源としての活用を通じて、地域の文化・食・伝統産業の継承に寄与する」と指摘し、上質な宿泊施設を地方部に整備することはオーバーツーリズムの解消だけでなく、地域社会の持続的な存続、サステナビリティにもつながると伝えています。




1.3 富裕層市場

先述の「上質なインバウンド観光サービス創出に向けた観光戦略検討委員会」が誘致しようとしている富裕層のマーケットについては、日本政府観光局(JNTO)の実施した富裕旅行市場調査結果[2]から考察することができます。調査によると、富裕旅行者の特徴として、50代~60代が中心の従来型ラグジュアリー志向:Classic Luxuryよりも、20代〜30代(ミレニアルズ)が中心の新型ラグジュアリー志向:Modern Luxuryが拡大を続けているといいます。Classic Luxuryが高い快適性、エクスクルーシブ、プライバシー、ステータスシンボル、ベストサービスを求めるのに対し、Modern Luxuryは本物の体験、エコツーリズム、サステナビリティ、ボランツーリズム、一生の一度の体験を求めています(図1)。このことから、環境に配慮することや、そこでしかできない体験を提供することが、富裕層の誘致や上質な観光サービスの提供において重要であると考えられます。

図 1 富裕旅行者の志向 出典:JNTO(2020)「富裕旅行市場に向けた取り組みについて」



[1] 観光庁「上質なインバウンド観光サービス創出に向けた観光戦略検討委員会」資料2 訪日外国人旅行消費の増加に向けて(観光戦略課)

[2] 観光庁(2020年10月5日)第1回「上質なインバウンド観光サービス創出に向けた観光戦略検討委員会」資料3 富裕旅行市場に向けた取組について(JNTO)